今日も迷走中!!~鬱と向き合うオジさんの記録~

毎日迷走中のおっさんのブログです。主に鬱病の体験記です。その他、仕事の事、趣味の事などいろいろと書いていきます。

「ほめる」という事

わたしが苦手な事に「ほめる」と言う事があります。

これは、相手がわたしを「ほめる」事も、わたしが相手を「ほめる」と言うどちらも含まれます。

 

「ほめる」は「褒める」と「誉める」がありますが、調べてみると…

どちらも「人の行いを評価する事」の意味ですが、「褒める」は目上の人、または同列の人に向けて使われる事が多く、「誉める」は多くの人からの評価という感じみたいです。

 

ここでは、「褒める」の方で話を進めていこうと思います。

 

わたしが、「褒める」事が苦手な理由のひとつに、子供頃に褒められた記憶があまりない事があげられると思います。

「あまりない」と書いたのは、母親をはじめ、周囲の人から褒めてもらった記憶はあるんです。

ただ、父親から誉められた記憶がありません。

 

例えば、テストでいい点を取ろうが、絵画コンクールで賞を貰おうが…わたしが父から言われた記憶は「そんな事はどうでもいい」「○○(従兄弟をはじめ父の知り合いの子供)はもっとすごいんだ」という事ばかり。

 

どんなに頑張っても、周りから評価されても、父には認めてもらえない…

「お前はダメだ」そう言われる事ばかり…

そんなことが、子供の頃は当たり前だったと記憶しています。

その記憶が強くあり、褒めてもらった記憶は遥か彼方…そんな感じです。

だからでしょうか…

わたしは、褒めてもらっても素直に受け取れないんです。

褒めてもらっても、その言葉が、スーッと身体をすり抜けていってしまう感じ。

心に留まっていないというか、心の奥の奥へ行ってしまう感じです。

 

逆に、わたしのミスを突かれたり、否定される様な発言は、いつまでも心に突き刺さって、心に根付いてしまう。

自分が傷つけられた言葉ばかりが心に溜まっているから、褒めてもらった言葉が留まる場所がないのかも知れません。

もしくは、傷つき濁った心に、きれいなものを入れても、なかなか薄まらない…そんな感じなのかもしれません。

 

あとになって、「あの時褒めてもらってたんだよな…」って言われて気づく事もしばしば…。

 

これでは、自信を付けるどころではないですよね…。

 

 

自分の心に褒めてもらった言葉が染みついていないからでしょう…

相手を褒めることに慣れていない…何て言っていいのか分からないんです。

「すごいな」「すばらしいな」と思う事はあっても、それを伝えるすべを知らない…。

素直にそう言えばいいのだろうけど、恥ずかしくなってしまうんです。

 

でも…

「ほめる」事が苦手なんて、言ってる場合じゃないですよね。

自分ばかり「認めてほしい」と思っていても、相手を「認められない」んじゃ難しいですよね。

自分ばかりが欲しがっていても、相手がいる事なのだから、キャッチボールにならない。

だから、自分からも返せるように…発信できるようにしていかなければダメだな…と思うようになりました。

 

 

きっとこういう所からも、鬱につながっているんじゃないかなと思うんです。

心が荒れ果ててしまっているのなら…自分で少しずつ耕していかなくては…

そのひとつとして…

自分から「褒める」事ができるように…

今からだって遅くはないはず…

恥ずかしがらずに、少しずつチャレンジしていこうと思います。

 

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心に突き刺った言葉が鬱を招く

わたしが鬱状態へ向かっていく要因の一つに、『相手の言葉』があります。

 

キッカケとなった出来事の時に言われた一言が、心に突き刺さってしまう。

心に突き刺さってしまった言葉を何とか取り除こうと思うけど、どんどん深く突き刺さっていく感じ。

その心の傷は、徐々に化膿していって…

そうなると、もう頭から離れなくなり…

自分を守ろうと、ちょっとしたことでも過敏に反応するようになっていきます。

こんな状態になってきた時にはもう…鬱が始まっているような気がします。

 

うまく聞き流したりできたらいいのだけど、それができないんです。

それができたら、どんなに楽か…。

でも。どうしても真正面から受け止めてしまうんですよね。

じゃあ、何とか突き刺さった『言葉』を取り除けないのか…

そんな風に考えますが、わたしの場合、時間がかかるんです。

 

相手の発言は、どんな意図があったのか…

自分はその時、どんな考えだったのか…

どうしてこんなに突き刺さってしまったのか…

などなど

 

自分会議を何度も何度も重ねて、落としどころを見つけるまではダメなんです。

 

そこで抜け出せればいいのだけど、わたしの中で決着がつく前に、同じ人から また別のお言葉を頂戴し、そいつが深く深く突き刺さってしまうのです。

 

こういう人って、自分の意見は言うけど、こちらの意見は聞いてくれないんですよね…

だから、余計にモヤモヤが増していくんです。

これが、まぁよくあるパターン。

 

鬱になった時に苦しむのは、この一連の事が大半を占める訳です…。

そして、今回もこのパターンだった訳です…。

 

 

さてさて、どうしたものか…。

まず言えるのは、こちらはこんなにも苦しんでいても、相手は覚えていない事が大半だったりします。

 

「おいおい、ふざけんじゃねーよ!こっちは苦しんでんのに!!」

って頭に来ちゃうけど、相手にとっては「何の事」って感じ。

 

きっと相手は、自分の言いたい事をぶつけてきただけだからスッキリしてるんじゃないかな…と思うんです。

そして、自分の考えだったり立場だったりプライドだったり…そんなものを守れたのだから、引きずる事もないのだろう。

 

一方こちらは、その逆だからダメージが大きい。

だから納得がいかないんだろうね…。

 

でもね、相手はその場限りでスッキリしているのだったら、こっちがモヤモヤと長い時間費やすのも、何だか癪にさわるよね。

 

だから、できればこちらも「その場限りの、その程度の事」って割り切れるようになったらいいのかな。

 

その為には、どうしたらいいのか…。

 

まずはダメージを最小限に抑える事かな。

聞き流せたら一番だけど、聞き流せないのはきっと、真面目過ぎちゃうんだろうな…自分でいうのもなんだけどw

自信の無さを真面目さでカバーしようとしている感じかな。

自信があれば、「何言ってんだ」って突っぱねる事も出来るだろうし…

だから、クソ真面目にならなくて大丈夫って…

肩の力を抜いてみようと思います。

 

あとは、やっぱり人の目や評価を気にしすぎているんだろうな。

相手が聞いてくれないのもあるけど、どこかで押さえてしまう自分がいるのも確か。

 

自分の考えなどは押さえなくていい。

意見は言ってもいい。

それは、自分の為に…。

 

ただ、そこで揉めるようなら…そうならないのが一番だけど、揉めたなら引きずらないように翌日にでも「昨日はごめんね」と言えたらいいのかも知れないですね。

 

自分の考えなどを押さえない、隠さないようにすれば、自然と自信も戻ってくるのかも知れない…

そう言えば、ここ数年は特に自分の意見は、言えなかった…と言うか、言わないようにしていたかも。

そりゃ、自信なくなるよね。

 

ここでも、やっぱり一歩踏み出す勇気が必要ですね。

だめでも、「明日があるさ」くらいの気持ちでチャレンジしみようと思います。

 

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転機~カウンセラーとの出会い

まだ、平成が終わりを迎えようとしていた頃…わたしが鬱病になって10年目の事です。

この頃の事はこちら↓↓↓

ossanmeisocyu.hatenablog.com

 

以前の記事⇧にも書きましたが、勤めていた介護施設で鬱が酷くなり「居場所がない」と感じて系列の施設へ異動させてもらいましたが、ここでも色々あり、再び鬱が酷くなり退職しました。

この時、わたしの気持ちはまだまだモヤモヤとして落ち着かなかったのですが、「病院とは別のカウンセラーに話を聞いてみたい…」と考えるようになりました。

 

何故そんな風に思ったのか…

ひとつには、病院で受けていたカウンセリングが上手くいっていないように感じたことがあります。

鬱になり、初めて行った心療内科で、現在も時々診てもらっている病院です。

当時のカウンセラーから「自分でも対処されているから、何かあったら来てください」と言われていました。

「何かあったら」がいつも同じ事で、同じ話をされて…と言う感じで、何となく手ごたえを感じられずにいました。

異動前の職場には、定期的に職場で読んでいるカウンセラーがいた為、調子を落とした時にカウンセリングを受ける機会がありました。

内容的には今まで病院のカウンセラーと似たり寄ったりでしたが、どこかで「新鮮さ」を感じていました。

この時に「色々な人に話を聞くのもありかな…」と思いました。

それまでは、家族の勧めなどで他の病院を薦められても、新たな人との関わりに恐怖があったので、拒否し続けていました。

なので、「新鮮さ」を感じた自分に驚きました。

その時のことが頭の片隅にあった事もあり、妻に「別のところでカウンセリングを受けてみたい」と相談しました。

その時妻からは「だったら、嫌かも知れないケド、別の病院にも行ってみよう」と言われ、ちょっと怖かったけど、行ってみる事にしました。

 

カウンセリングは、わたしがネットで、なるべく自宅から近くて通える範囲の個人でされているところと探しました。

病院は妻が、ネットでやはり自宅から近い所で、色々と情報を集めながら、わたしに合いそうなところを探してくれました。

 

病院の方は、先生と面談して、色々とお話をお聞きしました。その際に先生からのアドバイスもあり、今後も今までの先生に診て頂くことになりました。

 

一方カウンセリングの方はと言うと…

それまでの話を聞いてくれた後に「こんな症状が出たら、こう対処しましょう」と言ったカウンセリングとは違って、わたしの心の奥に閉じ込めた気持ちを見つけては、固く閉ざした扉をあけて、自分と向き合い、その気持ちを受容する…と言った内容でした。

 

初めは、何のことやら分かりませんでした。

最初の頃は、正直「こんな事やってて大丈夫なのかな…」と言う気持ちもありました。

「そんなことで治るのかな…」って。

 

でも、カウンセリングの度に、先生がわたしの仕舞い込んだ気持ちを見つけて触れる度に、毎回号泣していました。

そして、カウンセリングが終わるとぐったりしていました。

今までのカウンセリングでは味わったことのない感覚に「先生を信じてやってみよう」と言う気持ちが強くなって行きました。

 

カウンセリングの最後に「この時の気持ちを家で書き出してきてください」と宿題を出されますが、これが最初はなかなかできませんでした。

この頃は、先生に見せる事を前提にしていたため、その気持ちになった出来事を説明していたり、どこか気持ちを押さえて書いてしまっていたような気がします。

 

そして、何度も書き直して漸く自分の気持ちが書けるようになると、その気持ちを「受容」するように言われました。

これがまた、難しかった…

「自分に話しかけるように」と言うのがとても恥ずかしい…だから、とても抵抗がありました。

妻がいない時間にこっそりやってみたり、布団をかぶってブツブツと言いながらやっていました。

 

でも、ひとつ仕舞い込んでいた気持ちを受容できると、何だかホッとしたような気持と、どこか暖かな感覚がありました。

 

ただ…今までこのブログでも何度か書いてきましたが、仕舞い込んでいた気持ちは数え切れないほどあって…ひとつ山を登ったと思ったら、その先にまた山がある…そんな感覚でした。

 

この繰り返しから、「自分と向き合う為のノート」を自分ではじめるようになり、少しずつ落ち着いてこれました。

詳しくはこちら↓↓↓

ossanmeisocyu.hatenablog.com

 

この先生との出会いが、わたしにとっての転機となりました。

現在はカウンセリングを辞められてしまったので、時々メールでご相談させて頂いています。

先生には本当に感謝感謝です。

 

 

 

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「今」と「自分」に集中しよう

昔から、いろいろと悩みだしたらキリがない性格なのですが、鬱との付き合いが長くなればなるほど、余計な事に神経を使っているような気がします。

 

どうしても、過去の事にあったことを思い出したり、未来の事を想像し、心配しては悩んでいる時間が多いです。

その日その日を精一杯生きているつもりなのですが、過去や未来と言ったある意味「余計な事」にも時間と労力を費やしてしまっているような気がします。

 

毎日信じられないくらいヘトヘトになってしまうのは、「余計な事」に「余計な力」を使っているからなのかもしれません。

 

「余計な事」の一つには、過去や未来の他に、人の顔色や評価を気にしすぎる所もあると思います。

 

とにかく余計なところに気を張って、余計なところで余計な力を使っている為、必要以上の力を使ってしまう為にヘロヘロになってしまうのだと思います。

 

では、どうしたら「余計な事」に「余計な力」を使わなくて済むのでしょうか?

 

「余計な力」を使わない為には、「余計な事」を考えなければいい。

言うのは簡単ですが、それがなかなか難しい…。

多分無意識なんだと思いますが、気付けば「余計な事」に気付き、感じ取り…そして考え、想像しては落ち込んだり、焦ったり…。

そんなパターンが染みついてしまっているような気がします。

 

また…

「余計な事」を見ない、感じない、考えない…

そんな風に意識していてもなかなか思うようにはいかず…

 

困った事に意識すればするほど、逆に「余計な事」が増えていきます。

どうしたものか…。

 

 

「余計な事」に時間と労力を使いだすと、だんだん「今」に目が向かなくなり、「自分」がどうしたいのか、何をしたいのか…そうしたことに手が回らなくなり疎かになっていきます。

では、どうしたら「余計な事」の入り込む余地をなくせるのかを考えてみました。

 

もしかすると…逆にもっと、「今」と「自分」に集中する事ができたらいいのかな…。

そんな風に考えてみました。

 

「余計な事」に時間と労力を奪われていると、「今」と「自分」がおろそかになって行くなら、「今」と「自分」に時間と労力を掛ければ、「余計な事」が疎かになるんじゃないかな…と言う発想ですw

 

具体的にはどうしたらいいのか…。

色々と考えてみましたが、私の場合は…

一日一日を大切に、今の自分に集中するという事なのかな…と思いました。

今の自分に集中するという事は、無いものねだりではなく、今できる事に集中するという事だと思います。

 

鬱になる前の自分を考えてみると、確かに過去や未来の事で悩んでもいましたが、その日その日を、今よりも精一杯生きていたような気がします。

人の目も今ほど気になっていなかったような気がします。

何より、あの頃は集中力があった様にも感じます。

そして、今よりもっと楽しめていた。

 

今はどうだろうか…?

集中出来ていないような気がします。

あまり楽しめていない、笑えなくなってきたような気がします。

 

それは何故かと言うと、やっぱり今は「余計な事」に気持ちが行ってしまうから。

もっと言ってしまえば、「今」を生きていないと言う感じかな。

「今」を生きていないという事は、「今の自分」を疎かにしているという事。

「今の自分」を疎かにしているという事は、自分軸で考えられていないという事。

 

つまり、頑張ってはいるのだけど、集中していない。

「今」と「自分」に集中していない…。

だから、「今の自分」の状態に、頑張りに気付けない…即ち認めることができないって事なんじゃないかな…。

 

 

これはもしかすると、先日書いた「情熱」というところにも通じるのかも知れません。

詳しくはこちら↓↓↓

ossanmeisocyu.hatenablog.com

 

自分を労う事も大切だけど…「今」に集中できていなかったら、「今の自分」に目を向けられないし、自分を認めることも出来ない…

つまり、自分自身にピンときていないから、どんどん追い込んで行ってしまう…。

そんな状態だから情熱も燻っていってしまうような気がします。

 

鬱になって以降の…いや鬱になる少し前の頃からだと思います…

わたしはこの悪循環にどっぷりと浸かってしまった為、自分を見失い、迷走しているのだと感じました。

 

この悪循環から抜け出す為にも、「今」と「自分」に集中できるように意識を変えていこうと思います。

まずは「今の自分」ができる事をひとつひとつ、やっていこうと思います。

 

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カラダを動かすことの重要性

ナンダカンダ言ってカラダを動かすと気持ちがスッキリします。

 

これって、仕事で動いているから…って事ではないんですね。

 

仕事でいくらカラダを動かしていても、発散されるどころか悪いものが溜まっていく一方…そんな感じです。

去年、どうしても身体に不調が続いていて、身体を動かすどころではなくて、その日その日を何とか乗り越える…そんな感覚でした。

そんな状態だったから、仕事から帰ると、ぐったりして何もできなかったのですが、ある日、「ちょっとカラダを動かそうかな」と思い、自宅のエアロバイクを30分くらい漕いでいました。

長いようだけど、動画を見ながらこいでいると、あっという間でした。

エアロバイクを漕ぎ終ると、運動後の疲労感はあるものの、心が軽くなった気分でした。

3~4日続けたのですが、身体が不調だったこともあり、その後は続けられませんでした。

でも、カラダを動かすと気持ちが軽くなる事を再確認しました。

 

今年に入って、鬱が酷くなって仕事を休みました。

モヤモヤも落ち着いてきて、少しずつ気持ちが前を向いてきた時に、エアロバイクを漕いだ時のことを思い出して、ウォーキングを始めました。

 

今回は、「毎日続けよう」ではなくて、「出来る時にやろう」と言う感じでした。

そんな風に考えられたのは、天気が不安定だったこともあります。

それもありますが、「こうでなきゃいけない」って考えは辞めようと思ったこともあります。

少し間が空いてもいいから…時々でもいいから、「できる時にやろう」と。

 

ウォーキングへ行く時は、いつも夕方の6時半ころから。

あまり人に会いたくないのもあるけど、散歩やジョギングの人が少ない時間に自分のペースでやりたいから。

 

大体、1時間半位を歩いてみたり、ダッシュしてみたり、ジョギングしてみたり…ラジオを聴きながら自分の気分に合わせてやっています。

 


走り続けなきゃダメとか、同じペースで歩こうとか、同じコースを歩こうとか…そんなルールは一切なし。

途中で立ち止まっても、ベンチで休んでもOK

そんな感じでやっています。

 

先日は、久しぶりにサイクリングにも行ったのですが、以前だったら「決めた休憩場所までは何が何でも休憩なし」って感じでしたが、自分の気分で休憩して…一回の休憩も随分長い時間とっていました。

『追い込む』んじゃなくて『楽しもう』

そんな考えになってきたような気がします。

 

身体を動かすと気持ちもリフレッシュされるけど、やっぱり わたしは家でゴロゴロしているのも好きなので、どちらも程よくやれたらいいのかな…と思います。

きっとそれが、わたし自身を保っていくのに必要なんだと思います。

 

 

鬱になるとどうしても家から出られなくなります。

カラダを動かすどころではなくなります。

そして、少しカラダが動かせるようになると、必ず無理してしまいます。

何故無理してしまうかと言うと、わたしの場合は、「~しなければならない」という思いが強くなってしまうからだと思います。

そんな状態の時は、冷静な判断も出来ず無茶をして、また動けなくなったり、上手くできなかったりすると、さらに落ち込んでしまうだけです。

 

だから、まずは心と身体を休める。

「もう休むんだ」と腹を括って休む事です。

 

そして、少しずつ回復して来て「カラダを動かそう」と思ったら簡単な事から始めた方がいいと思います。

身体を動かすなら、ラジオ体操をするでもいいし、腕立て伏せを1回するでもいい。

それも「毎日やろう」なんて思わなくていい。

1日おきでも2日おきでも…なんなら1週間に1度だっていいと思います。

そのうち、少しずつ他の事もできるようになるから、焦らずにちょこっとずつでいいと思います。

 

その時に…

「これしかできない」

「こんなこともできない」

なんて思わなくていい。

 

考えるなら、

「こんな状態になるまで、頑張ってきたって事だから、今は心も身体も回復する事を優先しよう」

そんな風に考えた方がいいと思います。

 

まずは自分自身を労わってあげる事。

そして、頑張ってきた自分を認めてあげる事です。

 

そうする事で、心が少しずつ潤って回復してくれば、また色々とやれることも増えてきて、やりたいことがでてくるから…。

 

わたしも、少しずつ、自分のペースでやっていこうと思います。

勿論、自分を労わる事、認める事を忘れずに。

 

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だが情熱は…

1年前くらい…いや半年くらいなのかな…

まあその間くらいの頃からかも知れないケド、気になっていたことがあります。

 

何だか、情熱みたいなものが湧いてこない。



そもそも、目標が見つからないというか、自分がどこへ向かっていこうとしているのかが分からなかった…。

 

折角、自分が長い事「やってみたい」と理想に思っていた事を『やっている』『やれそうだ』と思って入った職場でも、どこかそこで働けること…もしかすると、その場にいる事でどこか満足してしまっている自分が居るように感じました。

 

同僚には、情熱をもって仕事をしている方が沢山居たけど、自分の気持ちがそこまで燃え上がらない事に戸惑いがありました。

 

もちろん「こんな介護がしたい」と言う考えは沢山あったのだけど、それを形にしていく為のパワーと言うか…自分を後をしする情熱が思うように湧き上がってこなかった。

 

「明確な目標がないからなのか」

そんな風に考えたけど、この先自分がどうなりたいのか?どうしたいのか?が全く浮かんでこなかった…。

 

どこか、今まで「それは理想だ」と言われ続けた事が、現実に行っている職場に入れたことで満足してしまっているような気さえして戸惑っていました。

 

でも、満足してしまっているだけなのなら、「あーしたい」「こーしたい」なんて考えないだろうから、きっとそうでもないと思うんです。

 

鬱になった事が…鬱を繰り返している事が原因でそうなってしまったのだろうか?

 

う~ん

鬱になっても、情熱持って仕事できてたような…。

 

でも、たしかに徐々に情熱的なものは薄くなっていったような気もするんです。

 

そう考えると、わたしの情熱が燃え上がらないのは、自分が傷つく度に纏ってきた「~でなければならない」と言う思考が邪魔をしていたのかも知れません。

 

情熱をもって仕事をしたいけど、それ以前に自分の為に纏ってしまったものが増えすぎたために、それどころではなくなってしまっていた…そう考える方がしっくりくるような気がします。

 

自分の気持ちとは逆方向に「やめとけよ」と足を引っ張る気持ちも、なかなか自信が持てない事も、傷つかないように自分を守ろうとしていたような気がします。

 

そういった事が、わたしに目標や情熱をもつ余裕を奪っていたのかな…。

 

 

じゃあどうすればよかったんでしょうね?

 

その時その時を集中することができていたら違ったのかな…。

その積み重ねで自信をつけるしかなかったのかな…。

 

でも、やっぱり毎日仕事をしていると「待ったなし」だから、そんな余裕なかった。

その日その日は精一杯やっていた…だけど、心が満たされなかった…。

仕事に対して…介護に対して前向きな自分に対して、酷く臆病な自分がいるのは分かっていました。

何とか振り払おうとしたけど、そうもいかなかった…。

 

臆病な自分は、人の目を気にして、顔色を見て、相手の言動に振り回されていました。

それが強くなればなるほど、わたしの情熱を…燃え上がらないように、燃え始める前に消して歩いているようでした。

 

情熱を燃やして仕事ができていた頃ってどうだったんだろう?

そんな風に考えてみると、根拠なんかないけど、自分を信じてガムシャラだったような気がする。

 

若かったから…

そう言ってしまえばおしまいだけど…

 

あの頃は、言葉にはしないケド、自然と自分を労う事をしていたような気がします。

疲れてはいたけど、好きな事、興味のある事もやっていた。

 

あの頃は、マンガもよく読んだし、好きな番組も良く見て笑ってた。

ゲームもしたし、釣りも始めたり、草野球もやってたかな…。

 

自然とON-OFFができていたのかも知れない。

 

だから心が枯渇しなかったのだと思います。

 

じゃあ最近はどうだろうか…?

まずは仕事とプライベートな予定も後回しにしたりして、仕事優先になってたかな…。

「何かをやりたい」

「何かを始めたい」

そんな考えが殆ど浮かばなかった。

自分の好きな事も、どこか仕事と結びついてしまっていたから、楽しめなくなって、気付けば追い込まれていたような気がします。

 

こんなところでも「~すべき」的な考えが先行していました。

 

そう考えると、情熱ってやつは、心を縛りつけて…心が枯渇してしまうと湧き上がってこないのだと思います。

情熱を燃やす為には、自分の好きな事も大切にすることが…心に栄養を与えることが大切なのかもしれません。

 

「介護辞めた」と思っても、まだまだ「あーすればよかった」「こーすればよかった」なんて時々考えるのは、わたしにもまだ『情熱はある』のだと思います。

燃え上がるまで行かないケド、『種火』のようなものが…。

『種火』だけど…こんな調子だけど…「だが情熱はある」んです。

わたしにも情熱が残っているはずです。

 

この『種火』を大切に育てていこうと思います。

そして、この先の人生は「また情熱を燃やして何かに取り組めたらいいな」と思います。

 

いまはまだ…「これからどうしようかな」って感じくすぶってますが…

 

楽しい事も沢山考えながら、ゆっくりと進んで行きたいと思います。

 

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自分らしさ

「自分らしさって何だろう」

去年はそんな事を考えることが多かったです。

 

『自分らしさ』って…

人それぞれ、考え方であったり価値観であったりが違って当たり前で、そういったものを大切にしていて、無理の無い状態なんじゃないかな思います。

 

そして自然体というか、自分が心地よい状態でいる事が、わたしが考える『自分らしさ』なのかなって。

 

考えるとキリがないのですが…

例えば、他者との関わり方にも…

楽しく関われているのならいいのですが、ストレスを感じてしまうようでは、自分らしくはないんだと思います。

おしゃべりが好きな人も居れば、そうでない人も居るように、様々であっていいのだと思います。

深くかかわる事を好む人も居れば、それが苦手な人も居るわけで…。

 

『自分らしさ』というくらいだから、人それぞれでいいんですよね。

そこに「人からどう思われるか…」とか「こうやらなきゃいけない」なんてものを意識してしまうと、『自分らしさ』からはどんどん離れていってしまう。

 

わたしは、何が『自分らしい』のかは、まだ分かっていません。

もしかすると、本当は分かっているのかも知れません。

でも、「人からどう思われるか」とか「こうでなくては…」という事に、振り回されているから分からなくなっているのだと思います。

人の評価を気にしてしまうあまり、自分の意見は言えないどころか、自分の考えや信念みたいなものすら隠してしまう事が多いです。

そういった状態は、その場はいいかもしれませんが、傷となって残り、あとあと響いてきます。

 

子供の頃、父から自分を認めてもらえなかった環境が影響しているのかも知れないですね。

そう言えば、気に入らないと「出て行け」ってよく言われていたから…。

人の顔色を気にしたり、「こうでなくてはいけない」という事が沢山あったり、自分に蓋をしてしまうのは、子供の頃に身に付けた生きて行く術なのかもしれません。

 

それでも、カウンセリングなどを通じて、随分マシにはなってきたような気がしています。

最近は少し、自分が心地よい状態、リラックスできる状態に目を向けるようになりました。

現在のわたしは、TVで好きな番組を繰り返し見ることや、ゴロゴロすること、マンガを読む事、ラジオを聴く事、ドライブに行く事…あと最近はギターを弾いて歌っている時なんかが、心地よいようです。

まぁ昔から変わらないかなw

 

こんなところに目を向けられるようになったことも大きな前進です。

 

そして、もう少し時間をかけて『自分らしさ』ってやつを見つけていけたらと思います。

 

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何度でも立ち上がろう

鬱になると辛いけどさ。

 

毎度「もう死んでしまおう」なんて思うけどさ。

 

 

何だか今は、「こうなったら何度でも立ち上がってやろう」なんて思ったりしています。

できることなら、もう鬱にならないのが一番いいんだけどね。

 

本当はさ、普通に生活したいよ。

 

仕事もずっと続けたいよ。

 

平穏に暮らしたい…。

 

それが一番の願いなんだけど、もしもまた鬱になったら…繰り返すようなら、立ち上がってやろうと思います。

 

 

こんな風に思えたのは鬱になって初めてかもしれない。

 

今までは、どうやって鬱を回避するかばかり考えていたから。

 

きっと、わたしの人生の目的は、この病気から何かを学ぶことにあるのかも知れない…なんて大層な事を思ってみたりw

 

なんだか考え方が少し前向きになってきたような気がしています。

 

 

 

思えば、鬱になっては回復して、また鬱になって…そんな事を繰り返しながら、少しずつではあるけど、自分自身が変わってきているのも事実。

 

一歩一歩…いやもしかすると半歩ずつだったかもしれないけど、良い方向に変わってこれているように思います。

 

 

 

今回変わったなと思う事がもう一つあります。

 

それは、何だか落ち着いているって事。

 

そりゃあね、悟りを開いたわけじゃないから、一日の中でも気持ちのアップダウンはありますよ。

 

それとは別で、変な気負いがない感じ。

 

「何とかなるさ」と開き直っている訳ではないのだけど、今までだったら、不安で不安で心の中が落ち着かなくてアタフタしていたような場面でも、何だか落ち着いているんです。

 

これがいい方向に作用してくれるといいなぁと思います。

 

折角、今までに感じた事の無い感覚だから…。

 

 

「何度でも立ち上がろう」

そんな風に思っているのは、自分が少しずつ変化している事に気付けたから…。

 

そして…こんな わたしの経験が、同じように苦しんでいる方の何かの足しになったらうれしいです。

 

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