鬱病4年目のお話です。
年末年始を自宅で過ごしてみて、鬱病が再発しなかった事。
一度実家へ戻ったけど、2週間お試しで自宅で生活して大丈夫だったので、1月末頃から自宅で生活するようになりました。
この頃は、父の仕事の手伝いを週3回ほどしていますが、仕事の前夜は必ずと言っていいほど眠れていません。
その代わり、仕事がない日は長時間眠っていることが多いです。
9時間10時間は当たり前のように眠っていたようです。
記録を見ると、『無理しないように』『体を休めよう』『考えすぎないようにしよう』と意識していることが分かります。
でも、自分では意識していても、なかなか思うようにはいかなかったようです。
鬱病3年目から始めた記録には、以前ブログに書いたように自分のエネルギー値を記入していました。
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その日の朝の体力の回復値や、使った体力値や精神的なダメージ値など記録していたわけですが、どうしても希望的な数値を記入していたのかなと感じてしまいます。
❝鬱状態測定マシーン❞でもあればいいのですが、自らの体感が頼りな上に、「早く良くなりたい」気持ちの焦りが、希望的な数値にしてしまっていたのかなと思います。
『無理しない』『考えすぎない』と思っていても、希望的な数値を基準に考えているから、やっぱり無理をして、考えすぎていたのでしょう。
そして、仕事の翌日は基本休みにしてもらい、一日中と言っていいくらい眠っていたので、『回復している』と錯覚していたところもあると思います。
自分自身でも体調の良し悪しの理解が不十分なため、何がどう辛いのかが他人には余計に伝わらないのです。
その為、仕事の日が、どうにもならないくらい体調が悪い日だったとしても、父には理解してもらえず、怒鳴られて仕事へ向かうことになります。
…と言うのも、父は昔から、わたしに何でも押し付ける所があり、仕事も一緒に現場へは行くものの、わたしにすべて任せて自分は、あちこちで雑談したりして時間を潰していました。
今思えば、「少し手伝って」とか「こっちの作業すすめといて」とか言えればよかったのですが、父は基本的に自分中心に世界が回っているような人なので、『言っても無駄だろう』とわたしもムキになっていたかもしれません。
そんな父の言動は、わたしの精神的なダメージの大半を占めていました。
父に子供の頃から振り回されていたので、元々父が苦手で、一緒に行動すること自体避けてきました。
そんな父と一緒に仕事へ行くことだけでも、大変なストレスだったのです。
父はきっと
わたしが、どうして自分の仕事ができずにいるのか?
そんな事は頭にはなかったと思います。
そして父は、鬱病を理解しようなんて気持ちもなかったと思います。
何しろ、子供の頃に怪我をしても、「気持ち悪いから見せるな」と言われていましたからw
※…後に、子供の頃からの父との関係が、鬱病に関係していることが分かるのですが、それはずっと先の事になります。
「家族に大丈夫な自分を見せたい」「早く社会復帰したい」そんな気持ちから流されるように父の仕事を手伝いました。
でも、父との関係がそんな状態だったので、「早く介護の世界にもどりたい」という思いが、気持ちを焦らせていきました。
そして、翌年からは、主治医の許可も出て、介護施設に就職が決まり、勤めることになりました。
鬱病4年目は、本当に悩み苦しみました。
今のわたしなら、もっと「こうしよう」「ああしよう」と対処する事もできたかもしれません。
「自分の本心はどうなのか?」
そんなこと考えても見ませんでした。
「自分の体調や状態はどんな感じなのか?」
それも冷静かつ客観的に見ることはできていませんでした。
そして、
「自分の言葉で、相手に素直に伝えることができたのか?」
これが一番難しかったのかもしれません。
記録を付けながら、週3日でも働くことができた。
それだけが、自分を支えていたように思います。
そして、
主治医からの許可が下りて、また介護の世界へ戻ることができたのが、何よりの救いでした。
「ああ、やっとここまでこれた」
そんな思いでした。
そんなわたしは、就職が決まると同時に、それまで続けてきた記録を辞めてしまいました。
「どうして、そのまま続けなかったのだろうか?」と後に公開します。
折角少しずつ身に付けてきた「無理しない」を徐々に忘れてしまうのです。
そして、このあと5年目以降も、いくつも乗り越えなければならない山がやってくるのです…。
でも、鬱病4年目の経験も、今となっては貴重なものだったと思います。
あの頃の、わたしに「大変だったけど、頑張ったね」と言ってあげたいです。