去年亡くなってしまいましたが、我が家にボーダーコリーが一頭いました。
名前は『ぎんじろう』と言います。
わたしが鬱病になったのは、『ぎんじろう』が我が家へやってきて、1年半位経った頃だったと思います。
当時、『ぎんじろう』の朝晩の散歩が、わたしの日課でしたが、丁度『わたしの中で何かが折れた』辺りから、散歩が辛くなっていきました。
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朝、近くの土手を散歩していたのですが、前から人が歩いてくるのが見えると、わたしに異変が起こりました。
ちなみに、その人は全く知らない人です。
いつもなら、何てことはないのですが、足が進まず、すれ違う頃には目が回ってしまい、立っていられず、その場に座り込んでしまいます。
その後も、人の姿が見えると足が竦んでしまい、目が回ってしまうのです。
しばらくの間、落ち着くまでは動けないでいるのですが、まだ若かった『ぎんじろう』は「早く行こう」とばかりに引っ張ってきます。
また、犬好きな人が話しかけてくると、座り込むことも出来ず、目が回ったまま対応することになりました。
それがまた辛かった。
(「察してくれ~」っていつも思っていました。)
足が竦む時、前から来る人に「あっ、アイツおかしいぞ。頭おかしいんじゃないか?」って思われているような気がしていました。
そんな言葉が耳元でささやかれているような…そんな感じでした。
今までなら30分くらいで帰宅できるコースなのに、日に日に時間がかかるようになりました。
体感では3倍も4倍も時間がかかっているようでした。
そんなことがあってからと言うもの、『ぎんじろう』の散歩は、どんどん苦痛となり、そして恐怖になりました。
それからは、散歩中に高い建物や鉄塔を見ると「あそこから飛び降りたら楽になるかな…」とか考えて、自分が飛び降りるイメージばかりが頭を過っていました。
当時、主治医やカウンセラーからは「犬の散歩もダメです。しっかり休んでください。」と言われましたが、「せめて、それ位やれよ!」と誰かに頭の中で脅迫されている様に感じてしまい、辛いけど散歩を続けていました。
その後…
目が回るのは『ぎんじろう』の散歩以外でも起こりました。
受診の為、病院の待合で待っていても、妻と買い物へ行ってみても、人が多ければ多いほど目が回ってしまい立てなくなりました。
そんなこともあり、徐々に外へ出ることが恐怖になっていきました。
世間から『自分は頭のオカシイ、ダメな奴』と思われているようで、また、そんな声が聞こえるようで、本当に辛かったです。
酷いときは、家にいても何だか近所の人が、わたしを指さして笑っているような気がして落ち着かないのです。
家の中で息を殺して生活し、物音がすると、カーテンの隙間から外の様子をのぞき込んだりしていました。
だから、『ぎんじろう』が吠えたりすると、生きた心地がせず、どんどん追い詰められていきました。
今思えば、「そんな訳ないし、自分で言わなきゃわからないのに」って思えますが…。
当時は真剣に悩んでいました。
辛くて、辛くて…。
暫くして少しで歩けるようになった時、近場の駅やデパートなどへ行って『慣れよう』としていた時期がありました。
早く「大丈夫」と思いたかったのだと思います。
でも、やっぱり目が回るし、しばらくベンチに座り込んでいました。
そして「まだ駄目か…。」と落ち込む。
この繰り返しでした。
動けるようになっても、しばらくの間休めばいいのですが…。
まだ病気の事を理解できていなかった、いや理解しようとしていなかったので、焦るばかりで、休んでなんかいられなかったのです。
「何とかしなくちゃ」という気持ちばかり焦って、自己流でいろいろとやってみては失敗する…。
そんな時期でした。
自己流や小手先の事で何とかしようとしていたから、同じ事を何度も繰り返しちゃったのかなと思っています。
あの頃は、「鬱を治す」とは思っていたけど、「向き合おう」という発想は全くありませんでした。
『最短距離を走ろうとして、道に迷ってしまった。』
そんな感じなのかなと思っています。
ここ数年で漸く病気の事を理解して、向き合えるようになったと思っています。
長い事、時間がかかりましたが、腹が括れたのだと思います。
なので、最近は変な声も聞こえないし、目まいもなくなりました。
でも、人ごみは苦手ですw
そして、すごく疲れますけどねw
でも、これは昔からなので、仕方がないと今は割り切っています。
『ぎんじろう』です。↑